茗荷谷通信
株式会社システム科学の最寄り駅である地下鉄茗荷谷駅。 このコーナーでは、弊社に訪れた際にふらりと立ち寄れる茗荷谷周辺の見どころや歳時記をご紹介しています。
第6回 茗荷谷通信 「九里四里うまい……」
芸術の秋、読書の秋、スポーツの秋と並んで、やはり外せないのは食欲の秋! 新米や旬の野菜、果物がお店に並ぶ様を見るだけで、何だか食欲が湧いてきますね。 秋といえば様々な野菜が浮かんできますが、本日は茗荷谷近くの小石川植物園と所縁の深い『九里四里うまい十三里』をご紹介します。 『九里四里うまい十三里』は江戸時代に小石川の焼芋屋さんが、自分のお店の焼芋につけたネーミングで「栗よりうまい十三里」と読みます。そうです、これは「十三里」という焼芋のキャッチフレーズであり商品名でもあった訳ですが、この洒落が江戸っ子に大受けして大評判に! これを起源として、現在でも「サツマイモ=十三里」という概念が定着したとのこと。小石川なら、弊社からすぐの場所。今でもこのお店があったら、すぐにでも行ってみたいです!
でも、サツマイモと文京区茗荷谷との関わりはこれだけではありません。 弊社近くの播磨坂を下って行った先に、国指定名勝および史跡である小石川植物園があります。この小石川植物園の敷地には、かつて江戸幕府五代将軍徳川綱吉が幼いころ住んでいた白山御殿がありました。その後、敷地の一部が薬園となり、「小石川御薬園」と呼ばれるようになり、八代将軍徳川吉宗の頃に御薬園が拡大されて現在の植物園の形に。小石川植物園内には、かつての白山御殿の庭園に由来する日本庭園や、今でも薬用植物を栽培している薬園保存園などがあります。 そして、小石川植物園の奥へ進むと、一つの記念碑があります。一体何の記念なのか……少し歴史をひも解いてみましょう。
遡ること享保十六年(1731年)、冷夏と虫害による享保の大飢饉がありました。西日本諸藩での米の収穫が例年の三割以下となり餓死者が多数出た中、瀬戸内海にある大三島はかねてから栽培していた『ある作物』によって餓死者を出すこともなく、それどころか藩へ余った米を献上する余裕があったのです。そのことを教訓として、享保二十年に徳川吉宗の命により、幕府の儒学者である青木昆陽がこの小石川植物園にて救荒作物である『ある作物』の試作を行いました。 『ある作物』、それは……『甘藷(サツマイモ)』です。
その後、サツマイモは全国に普及していく訳ですが、この普及については、多くの人が関わっていたものの、やはり農学者・青木昆陽の功績が大きかったと言えるでしょう。幕府が命じた公式な栽培を行ったこと、甘藷の性質・栽培法などを記した『蕃薯考』という農書を出版したことなど、彼が行ったことはその後のサツマイモの普及に大いに貢献したのですから。そして、このサツマイモの普及がその後の天明の大飢饉において多くの人々の命を救ったことは特筆されるべきことです。 前述の記念碑「甘藷試作跡の碑」は、甘藷(サツマイモ)を全国に広めた青木昆陽の功績を讃えたもの。碑が刻まれた大きな石は、なにやらサツマイモの形に似ていますね。
●『蕃薯考』
●甘藷試作跡の碑
冷夏や虫害は人間ではコントロールできません。けれど、飢饉については『いざという時の蓄えを用意する』、『日照りや冷夏、虫に強い作物を育てる』といった人間の知恵と工夫で被害を減らしていくことはできます。大三島という小さな島の成功事例を見逃さず、それを自分の下で実践し手法を確立し、(サツマイモを)広めていく。何気ない小さなことの中から大切なことを学び取る、私たちも教訓にしたいと思います。
ちなみに、明々後日13日(日)は「サツマイモの日」。穏やかな秋の日差しに誘われて、焼き芋を食べながら小石川植物園を散策してみるのもいいかも知れません(小石川植物園内での飲食は許されています)。
※10月13日が「サツマイモの日」になった由来は、サツマイモの旬にあたる10月と「十三里」の13との組み合わせから来ているそうです。
2019年10月10日
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